よく、年金問題などで、「二人で高齢者一人を支えるようになる」
などと言う表現が使われていますが、「支える」っていったい何でしょう?
そんな漠然とした表現を使っているから分からないのではないか、
とも思います。
今、一人暮らしをしている認知症の祖母がいます。徘徊がひどくなり、
そのたび隣家に住む両親は走り回っています。警察ともすっかりおなじみに
なってしまいました。体は丈夫なため動き回れるのが逆に災いしてしまっています。
火事でも起こされたら困るので、両親は同居を何度も提案しているのですが、
本人は頑として首を縦に振らないそうです。自分は自立してちゃんとやっている、
という認識なのです。周りからはとてもそうは見えないのに。
(実際報道される火事のうち、認知症のお年寄りによる火の不始末って
結構多いらしいです。原因は伏せられていますが)
「施設に入れれば」なんて口では簡単に言えますが、実現するのはそんなに
簡単じゃないですね。
3年から5年待ち、入れても高額、そして本人は入らないと言い張って暴れる。
体が丈夫なだけに、病院に連れて行くのさえあの手この手を使って失敗ばかり。
民生委員さんや、かつては信頼していた牧師さんや税理士さんも追い返してしまう。
こんな状況を見るにつけ、それはかなりハードルの高いことなのだ、と
いうことが実感として分かります。
この姿はもしかすると数年後あるいは数十年後の両親と自分の姿かもしれない。
高齢社会というのは、こういった問題に日常的に振り回されることが
当たり前のようになる、という社会なのではないでしょうか。
振り回される、という表現に嫌悪感をもたれた方もいらっしゃるかも
しれませんが、「支える」なんてきれいな言葉じゃすまない現実が
そこにはあります。
介護のために仕事を辞めざるを得なくなったり、引っ越したり、そういう人は
今でもいます。もしかすると今後は、そういう問題が無い人のほうが
希少価値になるのかもしれない。
介護中心の社会になっていってしまうのかもしれない。
コムスン問題を持ち出すまでもなく、「支える」側のインフラはまだまだ
脆弱ですし、この待遇の悪さでは、「支える」側が耐え切れず、減っていって
しまうかもしれないのではないか。
また、「姥捨て山」のように、動けなくなった老親を捨てる、ということも
増加していくのではないか。
その時、社会は今までどおり回っていくのだろうか?
ぞっとするものを感じます。
posted by nyoro at 00:01|
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