2007年08月26日

夏休み開始

昨日から、遅めの夏休みです。
会社の夏休みは7月から9月の間に3日間取ればいいことになっていて、
それに有給を2日足して5日休暇をとり、土日込みで9連休にしました。

例年そうなんですが、ほとんど娘とべったりですごす予定です。
明日は幼稚園の親子遠足だし、その他にも幼稚園のお友達と遊んだり、
パン屋さんの親子パン教室に参加したり、など。
純粋な自分だけの予定は美容院に行くことくらいでしょうか。

しかし、いつもさびしい思いをさせているのも事実なので、
ここはしっかりと頭を切り替えて、お母さんモードを満喫することにします。


そう言いつつも、読みたいビジネス書が溜まってるんですけど・・・
まあそれはぼちぼちと。
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2007年08月23日

懺悔


昨夜、出かけた先から帰るときのこと。
道を歩いている時、道端の植え込みの横で年配の男性が
横になっているのに気がついた。

「ホームレスかなあ。」と思いながら、急いでいたこともあり、
横目で見つつ通り過ぎて電車に乗った。

しかし、後になればなるほど、違和感が強くなっていった。

あの人は、具合が悪くて倒れていたのではないだろうか?

ホームレスにしては、服装がきちんとしていたような気がする。
寝ているにしては、うつ伏せになっていて体が痙攣していたようにも
思える。
一瞬のことなので、「気のせい」と言ってしまえば終わるけれど
案外こういう直感って、正しい時があるのではないかと思うのだ。

その場で足を止めて様子を見ればよかったのではないか。
救急車を呼ぶべきだったのかもしれない。
私がそうしなかったことで、悪い結果になってしまったのではないか。

現場は夜の商店街、人通りは多くはないが、電車が来れば
帰宅中の人は通る。
誰か気づいて声をかけてくれただろうか。無事だっただろうか。

こういう時に咄嗟に動くというのは案外難しいものだと感じた。
分かりやすい事故などではないから、尚更だ。

私の父は心臓を患っており、いつ道端で倒れないとも限らない。
その時、居合わせた人に助けてもらえるだろうか?
今回の私のように、「あれ?」と思いながらも通り過ぎてしまう
人もいるだろう。

決して悪気がなくても、急いでいたり、どうすればいいか
分からなかったり、あるいはもしかすると心の中に
「面倒なことに巻き込まれるのはごめんだ」という思いが沸いて、
助けたほうがいいと思うのにその気持ちに蓋をしてしまうことも
あるかもしれない。
(私にも、そういう気持ちが全くなかったと言ったら嘘になる)

人を助けられない人間は、人にも助けてもらえないものだ。
私は、バチが当たるんじゃないだろうか。
これ自体身勝手な思いだと思うが、そんな思いが頭から離れないのも
事実なのである。

路上で死にそうになっている人たちのための家を作り、介護し続けた
マザー・テレサの偉大さが分かる。
自分がまだまだ矮小な人間だと言うことも実感し、猛省した。

今となっては確認しようがないことだが、あの人が無事でありますように。
そして、次に同じようなシチュエーションに遭遇したときには
ためらわず声をかけることができるように心がけたい。
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2007年08月19日

アクションプランナー復帰

今月から発売になった、イー・ウーマンのアクションプランナー

昨年これを使っていて、今年は違う手帳にしたのだけど、やっぱり
アクションプランナーのほうが使いやすいな、と思ったので戻そうと
思っていた。

なので、まだ来年のことを考えるには早すぎるこんなタイミングで
発売するってどうよ、と思いつつ購入してしまった。
昨年は年末ぎりぎりくらいに買ったらもう欲しい色がなかったので、
今回は早めに押さえることにしたのだ。
買ったのは合皮イエロー。明るい色は希望を感じるから。
(本皮はさすがに高いので、悩んだ末合皮にした)


ちなみに私はシステム手帳が好きではない。
リングが邪魔というのと、やはり毎年まるまる新しいのがいいから。
中身は、バーティカルタイプが好き。見開き一週間で、時間軸が縦に
書かれているものだ。
一度これに慣れてしまったら、もう他のタイプは使えない。

そんな私にピッタリなのだ。
欲を言えば、もう一回り小さいといいのと、ペンホルダーが欲しいけど。


新しい手帳はやっぱり気持ちがウキウキする。
最初に書き込む瞬間を楽しみにしつつ、もう少し眠っていてもらおう。
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2007年08月18日

「夕凪の街 桜の国」 こうの史代

夕凪の街桜の国

ちょうど今映画が上映されているので、そちらをご覧になった方も
いらっしゃるかと思います。私も観てきました。
会場の客層は高齢者が多いように思いましたが、私はこの作品は
若い人にもっと知ってもらいたいと思います。


原作は漫画です。広島の原爆がテーマです。
数年前に「薄い本だけど、中身がものすごく濃い」という話を聞いて
本屋さんに行きました。
手にとってみると、本当に薄い。正直これで800円は高いのでは?と
一瞬思ったほどです。
でも、読んでみると800円では安すぎると思えるほどの衝撃がありました。


「誰かに死ねばいいと思われた」ことと、生き残った罪悪感。
家族が次々と原爆症(と思われる原因)で死んでいく辛さ。
何年、何十年もたってから発症してしまう残酷な運命。
そして、現代でもなお偏見にさらされている被爆二世、三世。

登場人物のさまざまな想いが伝わってきます。
こんな想いがあるのか。私は知らなかったし、想像力もなかった。


決して、声高に反戦を謳っているわけではありません。
絵柄もほのぼのとしています。でもその中に、実は強いメッセージが
こめられています。


決して、「しょうがなかった」ことなんかではない。


こういう現実を知らないということそのものが罪なのではないかと感じます。
少なくとも私は、知らないままでいるよりも知ってよかったと思っています。

そしてこの本は、一度読んだだけでは分からなくても、何度も読み返すうちに
分かってくることも沢山あります。味わい深い物語です。


映画のほうは、若干ニュアンスが違うように感じた面もありますが、
こちらも被爆者の方々が描かれた絵を使っていたり、映画ならではの
画像や音声で訴えてくるものがありました。
こちらもお勧めします。


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2007年08月15日

「となりのクレーマー―「苦情を言う人」との交渉術」 関根眞一 

となりのクレーマー―「苦情を言う人」との交渉術 (中公新書ラクレ 244)

西武百貨店でお客様相談室長等をされていた経験からの、「クレーマー」
とのやりとりの経験談とその対応、教訓などがまとめられた本です。
事例が豊富で、かつ読みやすいです。

商売をしていれば、クレームはつきもの。
しかし、対応を誤ると会社の評判自体を落としたり、あるいはその筋の
人たちに知られて次々とカモにされてしまう可能性があるというのは
怖いものです。
頭を下げるだけでなく、相手が何を要求しているのかを察して駆け引きし、
時には顧客に向かって大声で怒鳴ることもする。
まさに真剣勝負です。

正直、「こんなクレームつけてくる人いるんだ〜」と、クレームの内容
自体にびっくりしたりもしました。
私自身は不満があってもそのままその店や会社から離れるだけなのですが、
クレームをつける人というのはエネルギーがあるんだなあと思います。

本当にその店なり会社をよくしようと思ってのクレームもあるんでしょうが
大半は単に欲求不満を解消するためなんじゃないかなという気もします。
そういう場合はたいてい匿名だというし。

格差社会の底辺にいる人から見ると、百貨店の店員はエリートに見えて、
そのこと自体が気に入らないということもあるのだ、という記述も。
自分の存在自体が気に入らないと言われてしまったら、どうしようも
ないですよねえ・・・。


もちろん、
「普通のクレームを挙げてきた顧客をクレーマー扱いしないように」
ということもきちんと釘を刺しています。
「クレームは宝の山」だとも。


商売に限らず、近隣関係や学校関係などでも、今や普通の人が
いつクレーマーになるか分からない時代でもあります。

一般人も、クレームに対する対応というものを学んでおかないと、
ささいなことがきっかけで誰かとトラブルにならないとも限らない。
この本は、その入門書として適していると思います。



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2007年08月12日

祖父からの手紙

週末実家に帰ったら、私の荷物が入ったダンボールが出てきたと母に言われ、
何が入っているのか確かめてみた。

長崎旅行で買ったビードロ、
就職祝いにバイト先の人からいただいたアクセサリー、
子どもの頃使っていた色鉛筆セットなど、
タイムカプセルを開けた気分に浸る。


その中に、亡き祖父からもらったクリスマスカードがあった。

中を見てみると、祖父の達筆で、こう書いてある。


「目標に向かって、一層の努力こそ必要です」


目標が見つかりつつも、悩んだり考えたりばかりの私を叱咤激励するために、
祖父がこのカードを見つけさせてくれたのかも?とすら思えるタイミングだ。


そうだ、今の私に必要なのは、あきらめずに一層努力すること。
改めて心に刻んだ。

カードはこれから持ち歩いて、くじけそうになったら出して眺めよう。
きっと祖父が応援していてくれる。
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2007年08月10日

生体としてのリズム

寝苦しい熱帯夜が続き、睡眠不足気味の今日この頃。
しかし、私が夏に睡眠不足気味になるのは今に始まったことではない。

ふと思い出したのは、新婚旅行で行ったアラスカの話。
アラスカは高緯度なので、夏は極端に日が長く、冬は短い。
北米最北端の町バローにもなると、夏は陽が沈まず、冬は全く陽が
出なくなる期間があるのだ。

余談だが、アラスカに行ったのは新田次郎の「アラスカ物語」を読んで
感動したのがきっかけで、その舞台となったこのバローと言う町を
この目で見てみたい、と思ったのだった(私は小説や漫画、映画などに
感動すると、そのゆかりの地を訪れることが趣味であり、時には目標になる。
この酔狂な新婚旅行を面白がってつきあってくれた夫に感謝)。

真冬に行ったので滞在している二十数時間の間はまったく太陽光を
見ることができず、いかに自然光と言うものが生物にとって必要なもので
あるかを、理屈でなく体で思い知ることになった。

(さらに余談。「アラスカ物語」では主人公が氷の上を歩いたはずの
12月の北極海は凍っておらず、湯気をもうもうと上げて水をたたえていた。
こんなところでも温暖化を肌で感じることになった)

現地のツアーガイドさんによれば、
「日が長い夏は、あまり眠る気になれず、遅い時間まで活動的になる。
 反対に冬は、眠くて眠くてあまり動く気になれず、睡眠時間も長くなる」とのこと。

熊の冬眠ほど極端ではないにしろ、人間にも太陽の光と連動した体内リズム、
というものがあるのだろう(この分野はまったくの素人なので、感覚だけで
書いているのでご了承いただきたい)。

かくいう私も、最近のような熱帯夜になる前から、夏のほうが睡眠時間が
短くなる傾向があった。
寝苦しくて寝られない、というのとはまた違う。
眠るのに支障が出るほど陽の長さが違うわけでもないし、特別出歩く日が
増えるとかいうわけでもないのだが。
ここしばらくも、どんなに遅く寝ても5時前後に目が覚める。

何でなんだろう?と考えていた時に、前述のツアーガイドさんの言葉を思い出し、
自然と連動した生体としての本能なんだろうかなあ、と思い至った。
いくら都会の生活が便利になったといっても、生物としてのリズムを大事にしないと、
やはり生体としてどこかおかしくなってしまうのではないか。
なので、体の声は素直に聞くことも健康のためには大事だと思う。

そんなわけで、夏の間はろくろく眠れそうにない。

反対に、冬はいくら寝てももう眠くて眠くて、なかなか布団から出られない・・・
(あ、これって起きられない言い訳?)
posted by nyoro at 13:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月08日

「支える」って?

よく、年金問題などで、「二人で高齢者一人を支えるようになる」
などと言う表現が使われていますが、「支える」っていったい何でしょう?
そんな漠然とした表現を使っているから分からないのではないか、
とも思います。

今、一人暮らしをしている認知症の祖母がいます。徘徊がひどくなり、
そのたび隣家に住む両親は走り回っています。警察ともすっかりおなじみに
なってしまいました。体は丈夫なため動き回れるのが逆に災いしてしまっています。

火事でも起こされたら困るので、両親は同居を何度も提案しているのですが、
本人は頑として首を縦に振らないそうです。自分は自立してちゃんとやっている、
という認識なのです。周りからはとてもそうは見えないのに。
(実際報道される火事のうち、認知症のお年寄りによる火の不始末って
結構多いらしいです。原因は伏せられていますが)


「施設に入れれば」なんて口では簡単に言えますが、実現するのはそんなに
簡単じゃないですね。
3年から5年待ち、入れても高額、そして本人は入らないと言い張って暴れる。
体が丈夫なだけに、病院に連れて行くのさえあの手この手を使って失敗ばかり。
民生委員さんや、かつては信頼していた牧師さんや税理士さんも追い返してしまう。
こんな状況を見るにつけ、それはかなりハードルの高いことなのだ、と
いうことが実感として分かります。


この姿はもしかすると数年後あるいは数十年後の両親と自分の姿かもしれない。
高齢社会というのは、こういった問題に日常的に振り回されることが
当たり前のようになる、という社会なのではないでしょうか。

振り回される、という表現に嫌悪感をもたれた方もいらっしゃるかも
しれませんが、「支える」なんてきれいな言葉じゃすまない現実が
そこにはあります。

介護のために仕事を辞めざるを得なくなったり、引っ越したり、そういう人は
今でもいます。もしかすると今後は、そういう問題が無い人のほうが
希少価値になるのかもしれない。
介護中心の社会になっていってしまうのかもしれない。

コムスン問題を持ち出すまでもなく、「支える」側のインフラはまだまだ
脆弱ですし、この待遇の悪さでは、「支える」側が耐え切れず、減っていって
しまうかもしれないのではないか。

また、「姥捨て山」のように、動けなくなった老親を捨てる、ということも
増加していくのではないか。

その時、社会は今までどおり回っていくのだろうか?
ぞっとするものを感じます。

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2007年08月05日

「守破離」

「守破離(しゅはり)」とは、修行における三つの段階をあらわす教えで、
能の世阿弥が「風姿花伝」という書に書いたものだそうです。
その後、主に剣道などの武道の世界ではよく言われているとか。


「守」:師の教え(=型)を忠実に守り、体現できるようにする。

「破」:型を体現できるようになったら、それを洗練させて自分なりの
    発展を試みる。

「離」:さらに前進させ、型を離れて自分独自の世界を創り出していく。


むろん、ここまでくればOK!というものではなく、その後も常に修行、
精進を重ねていかなくてはなりません。


で、何でこれを持ち出したかと言うと、前回ご紹介した
個性を捨てろ!型にはまれ!にもこのことが出てきて、思い出したから。


研修の仕事をしている中で、よく言われることがあります。
いわく、
「研修受けたってできるようにはならない」。
「理論ばかりで実践的じゃない」。
「そんな方法論なんて、そのままやってもやりづらいだけ」。


こちらの教え方やテキストなどにも改善の余地があることは認めるとして、
それでも受講側にも意識の問題があるのではないか、と思われることも
少なくありません。


研修というものはここで言う「型」を教えるものです。
つまり、「守」の第一歩、ですね。あくまで第一歩。

しかし、教えただけでは「守」にもならない。
受講者がそれを体現してみて、初めて「守」になる。


研修で教わってきた。だからまずやってみよう。
やってみたらできた。なるほど、こうすればいいんだ。
じゃあ次に、さらによく出来るようになるためにはどうしたらいいだろう。

そうなって初めて、次の「破」、そして「離」へと進めるわけです。


少なくとも、私が入社した十数年前は、OJTがもっと自然に行われていて、
先輩から後輩への「型」の継承がスムーズに行っていたように思います。
なのに今は、みんな忙しすぎて余裕がなく、それどころじゃない。
自然と継承もできなくなるし、若い世代は肝心なところを知らないまま
見よう見まねで形だけ作っていたりするし、方法論を知らない人も増えている。


それって、「守」を無視して一足飛びに「破」「離」に進もうとするようなもので、
実際それがうまくいかないからトラブルが増えているんじゃないのか、
と思えて仕方ないです。


方法論を学ぶ、それを実践してみる、ということを軽視しないでほしい。
学ぶだけでは、知識にはなるけど何も変わりません。そりゃ当たり前。
でも、学ぼうとしないのは論外です。
学ぶことで、やみくもに一から始めるよりも、いいやり方で効率よく
できるようになるのですから。


まず学ぶ。学んだことを、自分の行動を変えるためのヒントにして、
ちょっとでも昨日の自分より前進しようとする。
そこに、自分の経験がプラスされ、昇華されて自分の「型」になるのだから。




posted by nyoro at 00:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 仕事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする