「シーラという子―虐待されたある少女の物語」
「タイガーと呼ばれた子―愛に飢えたある少女の物語」
障害児教育の専門家である著者がシーラと言う女の子についての
記録として書いた本です。
「シーラという子」では、6歳でありながら年下の男の子を
焼き殺そうとした罪の咎で、精神病院のベッドが空くまでの条件で
著者のクラスに来た被虐待児シーラが、著者とのふれあいや教育に
よって開花していく様が書かれています。
「タイガーと呼ばれた子」は、その後7年後に再会したシーラの変化に
驚き翻弄される著者の姿を描いています。
日本でも、児童虐待、ワーキングプアなど様々な問題がありますが、
犠牲になるのはいつも子ども というところにやるせなさを感じます。
子どもは環境によって作られるのだ、
その環境を与えてやるのは大人の責任なのだ、
ということをつくづく思い知らされます。
であると同時に、子どもにそういう環境を与えてしまっている大人も
好きでそうしていると言うよりは、何かしらの問題を自分自身が
抱えていて、それを解決できないでいる からこそ結果的に子どもに
悪い影響を与えてしまっているのだ、ということも真実です。
教師や心理学者などは、彼らの抱えている問題に対して手助けしたり
診断したり治療したり、ということはできるかもしれません。
でも、家に帰したらまた同じことが待っている、と分かっていても
帰さざるを得ないのです。
よほどのことがなければ、家族の問題と言うのは家庭の中で解決の
主導権を持つものであり、なかなか他人は踏み込むことが難しいです。
また、家族は永続的に関係が存在するわけですが、他人がそこまで
長期にわたって関わり続けることも現実としては難しいです。
現在の日本では、児童虐待の通報義務が課されたり、児童相談所の
権限が強化されたりしてきてはいます。
少しずつ、社会の意識も変わり、表に出てこなかった児童虐待が
だんだん公に出て来やすくなっているのは進歩だとは思います。
(ほんの10年前には、「日本には性的虐待がない」と国際学会で
語った精神科医がいるというのですから驚きです)
でもまだまだ子どもたちを救えていないとも感じます。
私も人の子の親として、こういう問題は本当に人事ではないのですが
それでもよそ様のお子さんにいったい何ができるのだろう? と思うと
暗澹たる気持ちになります。
以前、近所のマンションで虐待と思しき子どもの泣き声と訴える声が
長時間続き、たまりかねて警察に通報したことがあります。
正直本当に虐待かどうかは分からないし、かなり迷ったのですが、
子どもの泣き声がこれだけの時間続くと言うこと自体がおかしい、と
いう思いが決心させました(結構勇気が要りました)。
結局どこの家か特定できなかったのですが、警察の方からは
「これからもこういうことがあったら110番してくださいね」と
言っていただけたので、間違ったことはしなかったんだなと
思えました。
(他人でも虐待を発見した場合には通報義務があります)
家庭のことは家庭に任せるのが本来だとは思いますが、家庭そのものが
機能しなくなっている現代においては、ある種の「おせっかい」も
あえてする必要があるのかもしれません。
それはまたなかなか骨の折れることではありますが、自分ができること、
自分が今するべきだと思えることについては、物怖じせずにして
いきたいと思いました。
子どもを一人でも救うために。